長い文章を載せる用です。自意識過剰です。

20180317@新宿ゴールデン街劇場

f:id:hotatatate:20180317230326j:plain一日3公演、全公演に参加してる人は頭おかしいんじゃないかと思ってるけど、私もその一人だった。社会人になってから、松永天馬のこと、ひいてはアーバンギャルドのことを考える時間は思いっきり減って、新しい環境とその人間関係でいっぱいいっぱいだった。でも、ライブに行くし、ソロも行く。行きたいから。ひとときたりともその瞬間を見逃したくないくらいに好きだけど、その後の余韻に浸る時間は思いっきり減った。そこにきての、これである。昨年の「松永天馬」リリース時、新宿ゴールデン街劇場で行われた暗闇視聴会。キスマーク/唇、ハートマーク/心臓。暗闇の中、BPMの速まるのを感じた。詩のボクシングで、パラボリカ・ビスで感じた、あの感じを思い出した。私、あなたの言葉に恋してる。無条件に恋してるのかも。なんかもう洗脳されてるみたいな感じで、あなたの表現、今までのも、新しいのも、とても愛おしくて、好き。こんなに愛しく思えること、一生のうちに後何回あるのかな。本日の朗読会は、私にとってはとても久しぶりな気がしたけど、裏切らないなあ、と思った。結局、どんな表現であっても受け入れちゃうのかもしれないけど。私、アーバンギャルドは愛してるけど、松永天馬の詩とか表現には、恋してるみたい。恥ずかしいから手紙は書かないけど、こんな素敵な人がこの世に存在していて、私はその表現を享受できる、そしてそれを誰かと分かち合えるのがとても幸せだ。分かち会えなくても、ひとりごちるだけなのだ。だから私は幸せで、明日を生きる糧になっているよ。

ワンオブゼムでいたいから、いつまでも孤独

ノンフィクションのあたしとフィクション

紛れもなく私の青春だったし、振り返るとそこにいる身近な存在。もう少女じゃないし、今はもう青春なんて呼べない日々を送っているけど、とても特別な存在。だけど、あなたは私とはかけ離れた存在だった。かけ離れた存在なのに、どうして私と同じ気持ちなのか不思議だった。少女に仮託して人のネガティブな感情を歌っていたのかもしれないが、それだけではない。

あたしフィクションを聞いて、ああ、アーバンギャルドは私に必要なフィクションだったのだと気付いた。私の過ごした青春を、あなたは経験していないけれど、私は、あなたの青春と私の青春を重ねていたのかもしれない。私は恋してないし、セーラー服は脱がないし、エイズ検査に行ったこともない。アイドルでもないしリスカも自殺しようとも思ったこともないけれど、私と同じ気持ちのあなたが救いだった。曲を聞くたび、「私の私」と「あなたの私」の二重生活のような、パラレルワールドにいる「もう一人の私」のように感じていたのかもしれない。そんなあなたが、まだまだ私だけのフィクションでいてくれることがとても嬉しい。レコードの割れるような口づけで始まった私たちだけど、まだまだこの唇を離す気はないから。

呼吸が世界とキスすることならば、私はあなたという世界で窒息死したい。息が苦しくなるほど、永遠のように長い口づけをください。

今の気持ち

引っ込み思案でうじうじしてて流されやすい性格だけど、自分を良く見せたいと思うし売り言葉に買い言葉で挑発に乗ってしまう人間だから、世の詭弁家に良いように使われるだけの人生だなあと気づいてしまった。

その場がうまくまとまらなかったら私がなんとかしたいし、自己肯定感が低いから「あなたしかいない」と言われると引き受けてしまうけど、自分の性格も自分のキャパも正確に把握できていないから結局全て台無しにしてる。

人付き合いが下手くそだからあまり多くのコミュニティに参加したくない。結局破滅して終わるとわかっているのに、人との繋がりを求めてしまうのは人間の性かしら。仲良くなりたいけど失望されたくないから、今の関係性が丁度良い。でも、あの子にとってはOne of themに過ぎないんだろうな。私にとってはすごく大きな存在だけど、至って控えめにしかそれを表出しないから気づかないよね。

結局自己嫌悪で全て終わる。なりたい私になれない私は誰なの教えてと思うけど、なりたい私になれない私が私なのだと思う。


四次元空間と言葉と出力

言葉で武装しようにも、私の拙い言葉では戦うことができない。

言葉が発現するまでに何が起きているのかを想像するのはとても面白い。私の脳内は四次元空間のようになっていて、この四次元空間というのは頭でっかちの状態だなあと思う。その大きさは実体の直径15センチには収まらず、無限に広がる宇宙のようなイメージ。考えている内容はさておき、無限の空間の中にいろんなワードが流れている。複数の話題に関するワード、もしくはセンテンスが同時多発的に流れていて、自分でも理解できない。それをまとめるのは一苦労だ。そもそもまとめる必要などないのだ。誰かに伝える必要がない限り。

私の考えを誰かに伝えるための最も簡単な手段は、声に出すことだ。脳から発声までに介在するのは意識で、その場に適した会話を引き出すためのフィルターである。「あのー」とか「えーっと」といった間投詞は、無意識に起こることが多い。この無意識のうちに発している間投詞は、私が話したいことを抽出するための場繋ぎ、またチューニングするためのものだと思う。弱点は、やり直しがきかないところ。一度発した言葉をなかったことにはできないけど、できないから、声に出して伝えることが一番ストレートに伝わる手段のようだ、私にとっては。

次は、手書きの文字で書き記すこと。その中にも序列があって、一番は指、二番は鉛筆、三番はボールペン。書く先の媒体は、電子機器じゃないほうがいい。砂場に指で文字を書いたり、絵の具を指につけて書いたりしたような直感的な感じには、どんな筆記具も媒体も勝てない。筆記具の中でも、鉛筆の温かみ、紙に書いた時の掠れ具合が心地いい。消してリライトできるけど、筆跡は残るし、比較的自由に文字も図も書ける。この感じが好き。

最後に、電子機器を使った文字入力。スマートフォンなのかタブレットなのかPCなのかでも変わる。長い文章を打つ時はPC、チャットや短い文章を打つ時はスマートフォンといったように、文章の種類によって適性があるはず。しかしこの、デジタルでの文字入力は、チートの権化である。言い忘れたことを途中に挿入できるし、都合の悪いことを跡形もなく消し去ることもできる。タイプライターが現れて、ワードプロセッサが現れて、さらにインターネットで世界の人とあらゆる手段で繋がることができるようになった。この変化の度に人間の思考は変わっているのではないかと思う。qwerty配列で文字入力をすることを前提として、脳が働いている気がする。インターネットの先にあるツール、それが正式な文書作成なのか、掲示板、チャット、ブログ、SNSなのかによってもまた、異なる思考法を用いているのではないかと、不思議で不思議で仕方ない。

と、本当に研究したかったことのきっかけを書いた。デバイスと思考方法の関係性について。私はなんでもデジタルで済ましたくないし、インターネットが全てだとは思わない。その場の空気とか、肌触りとか、そういうものであなたを感じたいし私を表現したい。身体性を失いたくない。

頭の中に言葉が溢れてて、これをまとめてここに書くのがすごく難しい。私の頭の中では完結してるのに、こうやって整理しないとその全貌をつかめない。しかし、整理したところであなたには伝わらないの、すごく悲しいね。言葉に対する印象、ニュアンス、それは個人の価値観によって変わるものだ。個人を取り巻く環境は当たり前に皆違うから、誰一人として全く同じ感覚を持っていない。だから、価値観がとても似ている人と出会えても、私が思ったことをまるっきり同じように捉える人はいない。万が一、億が一、そんな人がいたところで、それを確かめる術もないんだけど。でも、そうやって生きていくしかないんだろうな。自分と相手との異なる部分に触れると新しい感情に出会える。それが楽しくもあり、分かり合えないイライラの原因にもなる。「頭の中で思ったことをまとめるのが面倒だから、私の思ったことが相手の人にそのまま伝わればいいのに」「自分のニュアンスを相手に伝えるツールができればいいのに」とか考えたこともあるけど、そんなのは想像力を破壊していくものでしかないので、技術的に実現可能になったとしてもいらないな。実現したら、悲しいな。

原風景のはなし

平成の初期にできた新興住宅街にずっと住んでいる私にとって、原風景とはなにか。

そもそも山だったこの地に、歴史などない。地名のつけ方にも無理がある。市の中心部から離れているため、自分の市に思い入れもない。おばあちゃんの家みたいに昭和の経済成長を支えた町だったり、おじいちゃんの家みたいに遊ぶところが田んぼしかない場所のほうがふるさとっぽくていいなあと思う。

家の近くの陸橋からは、工場地帯の煙がみえる。3.11のとき、黒い煙と、ときどき炎がぼわあっとあがって、窓ガラスが揺れたのを覚えている。海沿いの工場地帯と国道は、間違いなく原風景だ。

小学校のベランダからは田んぼと畑と川と、遠くの方に山が見えた。廊下側の窓からは、遊歩道と住宅街しか見えなかった。

高校はとても田舎にあった。住んでるところも郊外なのに、わざわざ1時間もかけて南のほうの高校に通っていた。しかも制服がダサい。駅から高校までの道のりは駐車場と田んぼがたくさん。初めて会った同級生が話すのは方言で、驚いた。ザ・観光地というような場所からきている友達もいて、すごく不思議だった。でも、駅の近くの商店街がとても魅力的だった。普段はほとんどのお店がシャッターをおろしているけど、夏のお祭りでとても賑わう。こんなふうに地域を練り歩くお祭り、初めてだった。商店街をたどった先にはお寺があった。古くからあるお寺だということもすごく魅力的だった。結局ないものねだりなのだろうけど。

大学は、東京のど真ん中にある。完全に知らない街だし、私の原風景などというつもりはないけど、思い入れが深い場所はたくさんある。そもそも大学の四方を怪しい人・建物に囲まれているため、普通の大学とは違うんじゃないかと思う。東京は、ビルの中に突然現れる小路や神社みたいに、現代的なものと昔からあるものが融合してるのがすごく好き。4年間通ったけど、垢抜けなかったなあ。4月からも東京に通うけど、また違うところだから、楽しみだ。

結局、私にとっての原風景がなんなのか、今はわからないけど、30歳くらいになったらわかるかな。

浮遊する思考

私の居場所は私の中にしかないんだなあと思う。

 

去年のこの時期は答えのない問題に頭を使いすぎて、もうさすがに吹っ切れたのですが、またそれがぶり返してしまった。あのおじさん憎む。

「繋がり」ってなんだろう。私は誰とも繋がってないなあと思いながら日々生きているけど、どうしたら繋がっていると思えるのかなあ。大好きなお友達といる瞬間はとても楽しいし、私の居場所はここだ〜!と思うけど、離れている時はそう思わないしなあ。その瞬間だけだなあ。SNSも同じで、私はインターネットの中を漂う一つの意識に過ぎない。そもそも知らない人とお話しできないのは現実世界でもインターネットの中でも同じだ。私はそういう人間だ。

だから、遠くから見守ることしかできない。現実世界でもインターネットの中にも、とても魅力的な人はたくさんいて、仲良くなりたいな、と思っても、私が一方的に相手のことを知っているので不気味がられてしまうと思って絶対に話しかけられない。ストーカー気質だから、なんでこの人こんなことまで知ってるの?と思われてしまうようなことまで調べてしまう。私は存在感がないから、相手が私のことを知っている可能性は0に近い。そんなの余計に気持ち悪い。自信のなさはここにも影響する。本当に好きで、楽しくおしゃべりしたいなって思っても、自分で壁を作っているからそんなことはできないのだ。結局全て受け身の人生だ。人生損してる。どうしたら自信がつくのかなあ。

もしも、あなたがここを見ていて、「これって私のことかな?」と思ったら、何かしらの合図をください。と、ここまで受け身だから、気持ち悪いなあ。